
帰りの地下鉄
目の前に現れた彼女
一人地下鉄に乗る。
もしかすると、今日は彼女に会えないのかもなと思いながら。
扉に寄りかかりながら。少し疲れていたと思う。
何も見えない暗い窓の外を見ていた。
彼女はそんな僕の姿を、同じ車両の中から見ていたらしい。
仕事仲間とホームへのエレベータを下りた時、目の前に並んで待つ僕が居たと。
僕はまったく気づかなかった。
後で彼女は伝えてきた。
彼女の指定した駅で降り、ひとまず、何処かで休もうとホームのベンチに座る。いつもなら座ることなどしないのだけれど。
少しすると、目の前に誰かが立ち止まる。
顔を上げると、彼女だった。
「待たせてごめん」と、僕の名前を呼びながら伝えてきた。
「さっきから私の目の前に居たのよ。気づかなかった?」といつもの笑顔で。
いつもの彼女が、そこに居た。
不思議だった。
会うのも躊躇すると昼までは伝えて来ていたから。
分かって欲しくて
僕らは路線を乗り換えるために歩き始める。
このまま、いつもの雰囲気で明るく話していてもいいのかな、とも思った。まるで、今までのことがなかったかのように。
でも、話すべきだと思った。今回のことについて。
一緒に居られる時間も限られている。
「ごめん」と謝る。
一緒、彼女の顔が曇るのが分かった。
もう話さなくていいと言った雰囲気で。
でも僕は続ける。
独占欲を持ったんだと。
明るかった彼女の顔はどんどんと真顔になり、視線が止まる。
そこからは、電車に乗りながら、二人で今までの出来事について話す。
隣に座り、彼女の手を握りながら、今までやり取りしたメッセージと同じ内容を、実際の言葉でお互いに繰り返し伝え合う。
彼女はなかなか消化できない表情をしている。
なぜ?そう思ったの?と疑問を投げかける。そして僕が答え説明をする。
握り合った手で、強く握ったり、弱く握ったり感情を送りながら。
大切な存在なんだよ。と分かって欲しくて。
無言で一緒に
彼女の降りる駅になった。
「今日はありがとう。今週は嫌な思いをさせてゴメン。ゆっくり休んで」と伝える。
「あなたの乗り換える駅まで送る」と彼女は言う。
「いや、いいよ。遅くなるでしょう」
「今日待ってくれていたじゃない。送ってから戻るからと」と。
その後は、二人、無言で手を繋ぎながら景色の見えない窓を眺める。お互いの姿が鏡の様になって反射して見える。
彼女は遠くを見ながら、何かを考えている。
そして、静かにそっと僕の肩に寄りかかる。そして顔を埋めた、泣きそうな顔で。
乗り換えの駅に着いた。
もう0時になろうとしている。
電車を降りて、お互いの最終電車を確認し、ホームに佇む。寒いねと言いながら。
風を避けた場所に移動して手を繋ぎながら寄り添う。
何も言葉はいらなかった。ただ、心に空いた空間が元に戻っていくような気がした。
別れ際に、彼女は言う。「明日時間はある?」と。
「朝、テニスがあるけれど、その後ならば」と僕は答える。「連絡するよ」と。
そして、お互いの街に向かう電車に乗り、それぞれの家に帰った。

失った時間を取り戻す
翌日も。翌々日も。
翌朝は小雨が降っていた。
僕はテニスに向かったが、結局、移動している最中に中止になった。その後は仕事に寄る話にしていたから、結果的に、一日、時間が空いた形になった。
彼女にメッセージを送る。「終わったよ」と。
すると、
「私の家の近くの喫茶店で、一緒に朝食を食べない?」と。
結局その日は彼女と一緒に過ごした。先週失った時間を取り戻すかのように話しをしながら。
翌日の日曜日も、僕の英語のレッスンがある街まで、予定を終えた彼女は迎えに来た。
お茶を飲みながら、1時間ほど一緒に過ごす。
そして、雨の中、彼女の傘で二人寄り添いながら駅まで歩く。
僕は彼女に伝える。「明日の午後休みを取るよ、明日仕事休みでしょう?」
彼女は驚きながら「もう十分だから、大丈夫だから。私はもう大丈夫」
「仕事、重要な時期なのでしょう?休んではダメだよ」と。
「いや、大丈夫だから。午後休んでも、夜仕事するから問題無い」「まだ、本音は話していないでしょう?」と彼女に。
月曜午後に休みを取って彼女と過ごす
翌日の朝、出社して、メンバーに段取りと指示を送り、午後の休みを確保する。
仕事は誰でも代わりは居る、でも、人との繋がりに代わりはない、大切な繋がりには尚更のことだと僕は思っている。
そして、窓が大きな部屋で、窓からの景色を眺めながら、彼女と食事をした。話をしながら。

彼女は少しずつ話し始める。
「もう、これで終わりにしようかとも思ったの。あなたとの関係を」
「あなたと出会い、本当に楽しかった」
「気持ちを分かち合える人と海外に出掛けるという夢も実現できたし、セックスも今まで生きてきた中で、一番あなたとたくさんした。
一年前には考えられないことだった…」
「だから、この経験を思い出にして、それを糧に残りの人生を生きようとも思った」
「でも、離れたくない、一緒に居たいと思った。ただ、もう傷つきたくないとも思った」
「なら、お互い本心を言わず、上辺だけの付き合いでも良いのかとも思った。深入りしない関係」
「でも、そうしたら何も言葉が出て来なくなったの、何をあなたに伝えたいのか、分からなくなったの、何のために一緒に居るのか」
「私は、本心を伝えることしかできない。表面上の繋がりは無理」
「金曜日に、実際に会った時に、確かめたかったの。あなたがどんな人なのかを改めて」
「一緒に居て、心が溶けていくのを感じたの。大切にしてくれていることを直感的に感じられたの。とても安心した。」
「そして、前よりも好きだと思ったの。このまま一緒に居たいと」
彼女は泣きそうな顔で伝えてきた。
そして、僕は答える。
「ありがとう」と。
そして、「僕も好きだよ」と。
でもその好きは、限りなく愛している好きだと。そして離れずに傍にいて欲しいと。
唇を重ね、抱きしめる。
お互いのものを愛撫し、口に含み、繋がる。
言葉では表現できない感情をセックスは伝えるツールだと僕は思う。喜びや幸せ、哀しみや苦しみ、様々な感情をお互いで感じ分かち合うものだと。
辛かった一週間を乗り越えて
僕らは以前よりもお互いを理解し、強く繋がっていると実感できる。
そして、昨日、
彼女のもう一つの夢を叶えに、鎌倉へ出掛けた。


帰り道に、彼女は僕に伝えた。
「丁度、一年前…」
「旦那さんが、私を裏切っていたことを知ったの。」
「それは、あなたと離れていた一週間と全く同じ時期だった」
「心揺さぶられて、とても哀しくて、何度も泣いたの」
「また、一年前と同じことを繰り返していると思ったの」
彼女の気持ちが不安定になり、どうにもならなくなったのはそんな理由もあったのだと僕は知った。
僕は、今という時間を積み重ね、彼女と生きていきたいと思った。
転がり続けられるところまで。
永遠になれることを信じて。
(終わり)

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